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知識の集め方

narita

この記事は1年以上前に書かれたもので、内容が古い可能性がありますのでご注意ください。

Eyes, JAPAN では、毎週木曜日に開かれる全体ミーティングにおいて、スタッフが持ち回りで「勉強会」という名目でプレゼンテーションを行っています。
発表の内容はバラエティに富んでおり、「お菓子の作り方」から「インターネットの仕組み」まで様々。
自分が普段触れる機会のない知見に触れることができるイベントであるため、毎週とても楽しみにしています。
その一方で、発表終了後にスタッフが一言ずつ述べるコメントの中で、特に学生からよく出てくる、次のような意見に私は小さな引っかかりを覚えています。

それが何に、どのように役立つかまで話してもらえれば、もっと興味がもてます。

私がこれのどこに引っかかっているのか分かって頂けるでしょうか。
学校や職場で多少なりとも他人にものを教えること、すなわち教育に携わっている方にはピンとくるものがあるかもしれません。

上記の考え方の根元にはおそらく、「学んだことは (そのすべてを) 何かの役に立てたい」という気持ちがあるのでしょう。
そして、その気持ちはともすれば「役に立たない (役に立つという確証がない) ことは学びたくない」という考え方にシフトします。
そこからさらに進んで、話の過程をすっとばして、「結論だけを聞かせて欲しい」という態度に繋がることも少なくありません。

そのような姿勢が、実利を重視した、ドライで合理的な姿勢だと評価されることも少なくないようですが、私はそうは考えません。
なぜなら、「考える力」を養うには、多くのモノの見方・考え方に触れる経験が欠かせないからです。
見聞きしたものは、たとえ自分が目的とする事柄に直接の関係はなくとも、その人が何かを考えるための材料としてストックされていくもの。
そして、そうした材料が何かに使えることに「気付く」ことによって初めて、経験が知識として自分の一部になるわけです。
それを集める手間を惜しみ、最短距離で目的とする知見まで一足飛びに到達したとしても、そこからの自分の考えを発展させることは難しいでしょう。
なにせ、材料の手持ちがないのですから。

では何故学生はこうした考え方をするようになってしまうのでしょうか。
個人的に、二つほど思い当たる事柄があります。

理系離れ?

若干論理が飛躍しますが、私はこうした考え方はいわゆる理系離れとも関係しているのではないか、と推測しています。
Eyes, JAPAN のパートタイムスタッフの殆どは会津大学 – コンピュータ・サイエンス専門大学の学生なので、「理系」が多いだろうと考えていたのですが、それはあまり正しくなかったようです。

まず驚いたのは、自然科学への興味の薄さ。
高校などで理系コースを選択するくらいなのだから多少なりとも科学が好きな人たちかと思えば実際は逆で、物理は苦手・嫌いという人が大半を占めています。
大学のカリキュラムでも、卒業に必要な最低限の科目だけを履修し、試験前に一夜漬けをして、単位をとったらすぐ忘れるという有様。
数学についてもほぼ同じような状況で、数式にΣが出てくると、そこで思考を停止してしまうという人も多く見受けられます。

そんな様子を見ていると、私などは「コンピュータで何をやる気だ?」と思ってしまうのですが、よく観察すれば、彼らには科学・数学とは別に興味の対象をもっていることが分かります。
それは、MixiTwitter, Facebook といったサービスに代表されるソーシャル・ネットワーク
そうしたサービスやネットワークがどのように形成・運用されるのか、そして、その中でどのようなビジネスが展開されるのかということについての彼らの関心の高さには、ひとかたならぬものがあります。
要するに、彼らの視線はソフトウェアやハードウェアといったものではなく、それを利用する「人間」に (だけ) 向けられているわけです。
これはまさに「文系」の志向そのものに他なりません。

このような文系の立場からすれば、「(直接) (人間の) 役に立たない」知識・技術は学ぶに値しないものとして位置付けられるというのも、それなりに筋の通った話ではあるでしょう。

情報量の増加?

私がプログラミングというものに初めて触れた頃 (1990年代前半) は、まだPCというものが珍しく、しかもその殆どはネットワークに接続されていないスタンドアローン端末でした。
当時のPC (PC-98) には、付属のアプリケーションなどというものは殆どなく、何かをしようと思ったらまず自分でプログラムを書くことから始めなければなりませんでした。
しかも画面の色数もメモリも現在のPCとは比べ物にならないほど貧弱 (4096色中16色, 64KB) なものなので、写真画質の画像・動画再生など夢のまた夢。
そんな環境の中で、プログラマはさまざまなアルゴリズムやテクニックを駆使してソフトウェア開発にの取り組んでいたわけです。
そのため、理系の知識、少なくとも数学はプログラマにとって必須の教養でした。

それから十数年がたった今では、誰もが簡単に、プログラミングなどまったくできなくとも、コンピュータ利用の恩恵に与ることができるようになりました。
それに伴い、コンピュータ技術者の在り方にも大きな変化が生じました。
コンピュータとネットワークの進歩により「できること」の幅が格段に広がると同時に、そのために「覚えるべきこと」の量もこれまた格段に増えたわけです。
そのため、昔のようにコンピュータの基礎的な技術をひとわたり押さえることから始めていては、いつまでたっても製品・サービスの開発に着手することはかないません。

今日の高度に発達した技術に取り囲まれた社会にあって、学生たちの目には、IT業界で活躍するために必要な技能の習得が果ての見えない長く険しい道と映っているようです。
そうした事情も考えあわせれば、「すぐに役立つ」知識・技術に飛びつき、それ以外のことに注意を払わなくなるのもむべなるかな、と思えます。

アクティブ・ラーニングのすすめ

しかしながら、そのような「効率的な学習」の背後には、「何が役に立ち、何が役に立たないか、予め判断できる」という思い上がりが見え隠れします。
先にも述べたように、見聞きし、触れ、考えたことは、人生において直接何かの役には立たずとも、その人がものを考えるための材料となります。
その材料を学びの過程で拾い集めることなく目的地にたどりついたとして、そこでいったい何ができるでしょうか。

「効率的な学習」を念頭におくと、どうしても新書・ビジネス書など、要点をまとめてパッケージ化された知識を仕入れにかかってしまう傾向が強まります。
小難しい話や複雑な過程を切り捨てて、「どうすればよいのか」を示す結論の部分だけを読んで全体を分かった気になってしまうのですが、そうした方法で理解できるのは、対象のごく表面的な部分に過ぎません。
そのような学習方法は、ある程度の年齢 (50歳くらい?) に達した人にはそれなりに意義があるかもしれませんが、学生にとっては自分の可能性を狭めるだけのものになるでしょう。

私としては、そうしたパッケージとして提供される「役に立つ」「分かりやすい」知識ではなく、たとえ効率が悪くとも、自分自身が本当に興味をもって取り組むことができるものを学んで欲しいと思います。
その分野も特に科学・数学に限る必要はなく、音楽, 美術, 経済, 歴史, 文学などでも良いでしょう。(それが他人と競合しないマイナな分野であればなお良し。)
大切なのは、興味の対象とそれに関する知識・情報を受身ではなく、自ら能動的に探しにいく姿勢です。

「学んだことをすべて役立てよう」「役に立つことだけを学ぼう」なんてケチなことを考えるのはおよしなさい。
将来、何が役に立つかなんて、誰にも分かりっこないのですから。

成田 (話が年寄りくさいのは昔から)
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