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EJ OB座談会【前編】卒業生が語る会津大学とEyes, JAPAN

Eyes, JAPAN Blog 編集部

1995年の立ち上げ当初からEyes, JAPANには多くの会津大生がアルバイトスタッフとして所属しています。今ではEyes, JAPANの卒業生の数は200名を上回りました。

卒業後、彼らはどんな進路に進んでいったのか、Eyes, JAPANでの経験がどのように活かされているのか。今回はEyes, JAPAN OBをゲストに迎えて当時のエピソードなどをざっくばらんに語り合う「Eyes, JAPAN OB座談会」を企画しました。

座談会の様子を前編・後編に分けてご紹介したいと思います。

(聞き手:山寺)

自己紹介

(山寺) まず最初に簡単な自己紹介をお願いします。

(吉田) 吉田明子です。会津大学の4期生で、今はコニカミノルタ株式会社で新規事業のための開発を行う全社横断の開発部門にいて、戦略策定の仕事をしています。

(藤原) 藤原勝弘と申します。会津大5期生で、現在は大学時代の同窓と立ち上げた株式会社あくしゅという会社をやっていまして、主にシステム開発をしています。会社の規模は10人くらいですが、なぜか外国人比率が高くなってしまって今は10人のうち7人が外国人です。

(吉田) おー。それはすごい。

(藤原) なぜか日本人が減ってしまって。社員の経歴は皆バラバラという感じで、事務所は都庁の下あたりに構えています。
現在私がやっている仕事は、皆さんが使っている携帯のバックエンド側のシステムのルータをゼロから書くというような仕事です。弊社はゼロからシステムを書く仕事を多数やっていまして、下請けの仕事もやりながら、この10年ぐらいをなんとか生き延びて参りました。

(山寺) 二人のキャリアを聞くと、吉田さんが大企業を渡り歩いて、藤原さんがバリバリのベンチャーということだと思うんですけれども。

(藤原) はい、そうですね。でも僕も一回だけ大きな会社に入った経験があります。

(吉田) え、そうなんだっけ?

(藤原) 僕は今三社目なんですけど、8年かけて大学を卒業した後に、新卒と言っていいか分からないですけど、最初に入ったのが当時色々と世間を騒がせたITベンチャー企業でした。そこで1年半くらい働いた後に、外資系の大手証券会社のシステム部門に入って、そこでリーマンショックが来たのでクビになって、今に至るという感じです。

(吉田) それは知らなかった!

多様なキャリアパスが実現できる大学の環境

(山寺) 藤原さんは大学を8年かかって卒業した後ベンチャーに行ったり、吉田さんも大学卒業した後にアメリカの大学に行って、その後ドイツでPh.D.を取ったかと思うんですけど、会津大学は結構二人のような、いわゆる日本の新卒神話みたいなものから外れたコースを選択する人が多いと思います。実際にその獣道を行った二人は会津大学のことをどう思っていますか?

(吉田) 会津大学はすごく環境が良くて、大学の設備面もそうなんですが、例えば学生の間からベンチャーで働いてみて自分の作ったものでお金をもらう経験とか、企業と組んでプロジェクトに参画してみたりとか、あと最近はプログラミングコンテストにもたくさん出ているじゃないですか。そういう大学の授業の枠を出ていろんなことにチャレンジできる環境があって、大学側もそういうことを推奨する文化があるのが素晴らしいと思います。
特に我々みたいに会津大学開学初期の世代だと、初代学長の國井利泰先生の影響が大きいわけですよ。國井先生がおっしゃるには大企業に行くのは二流だと(笑)。

(山寺) これ言っちゃっていいのかな(笑)。

(吉田) でもやっぱりそういうのありましたよね。

(山寺) 俺はその國井先生の言葉で会社を始めたんですけど、確かに國井先生の影響でそういう文化みたいなのはありましたよね。

(吉田) フロンティアスピリッツというか、そういうのが奨励される文化はホントにいいなと思いますね。

(山寺) 藤原さんは一度大企業にも行かれたわけですが、日本だと大企業神話がまだまだ強いし、福利厚生や給料は大企業の方が良いことが多いと思うんですが、どうしてベンチャーの道に飛び込んだのでしょうか?

(藤原) 私は元々親が自営しているということもあったので小さな会社にあまり抵抗ありませんでしたし、その親の会社の取引先が大きな会社だったりで大企業の苦労話みたいなのをよく聞いていたので、最初はベンチャーを選びました。まあ、ベンチャーと言っても当時既に1000人以上いる中堅企業になっていましたが。その後、数万人クラスの大企業に行ったらさっぱり水が合わなくて。あと一年くらい働いたら英語ができるようになったかなと思うんですけど、こればかりは入ってみないと分からないですよね。

(山寺) 会津大学がすごくいいなと思うのは、卒業論文を英語で書かなくちゃいけなかったり、大学の先生も海外の人が多いので、本当に話せるようになるかは別にしても英語のスキルが身に付くところだと思うんですよね。エンジニアは英語ができないと最新の技術から遅れてしまうので。吉田さんはそういう環境の中で、卒業後に海外へ行くことを選ばれて、当時は大学卒業したら大企業に就職するべきみたいな風潮が強かったと思いますけど、海外に行くことでそうした既存のレールから外れてしまうとは思わなかったですか?

(吉田) 思わなかったですね。大学の先生たちがそもそも日本語を喋れないような人たちばかりでしたし、どちらかというと日本で就職するイメージの方が湧かなかったと思います。世界各地から来た先生たちが、日本国内だけじゃない様々なキャリアパスを自然に見せてくれる環境だったので、そこはあまり特別なこととは思わなかったです。

(山寺) ちなみに大学院はどこに行って、どういった研究をしていたのですか?

(吉田) 大学院はアメリカのオレゴン州立大学で、ここは修士過程でしかいなかったですがコンピュータ・サイエンスを専攻していました。そこで一番最初に出た授業がAIの授業だったんでけど、宿題が出たことも分からないくらい英語が全然分からなくて。だから最近AI流行りですけど、AIって聞くとトラウマが…(笑)。
まあそれは余談ですが、その後ドイツに行って、そこでは大学と併設のマックス・プランク研究所というところでコンピュータ・グラフィックスの研究をしていました。それが2008年頃で、博論ではHDRの画像処理と知覚心理学の研究をしました。HDRは今でこそカメラとかテレビなどに普通に使われていますが、あの頃はまだ一部の研究者の間で流行っていたような時期でした。

(山寺) 藤原さんの大学生時代を知っているのですが、プログラムはめちゃくちゃ書けるのに大学に8年もいた原因は、単純に朝起きられないとか好きな授業じゃないと出ないとかそういう社会性の問題だと思うんですよ。

(藤原) 本当にそうですよね…(笑)。

(山寺) 逆にプログラムは全然書けなくても成績がそこそこ良ければ4年で卒業して良い企業に就職する人いっぱいいますが、良い企業に入ったらそれで終わりかって言ったらそうじゃなくて、入った後の方が長いわけですよね。その点、藤原さんはどうやって学生時代から常に自分で学び続ける姿勢を身に付けたのでしょうか?

(藤原) 勉強ができなかったというか、勉強のやり方を知らなかったんでしょうね。大学に入って初めて好きなことばっかりできるようになって、在学中に今一緒に会社をやっている山崎さん(※)を手伝って、当時興味があった3次元のことを一緒にやっていました。(※山崎泰宏 会津大学4期生 / 株式会社あくしゅ 代表取締役)

(山寺) 山崎さんって、卒論をMayaで書いたという伝説の人ですよね?

(藤原) ちょっと違います(笑)。普通、修論の発表にはパワポとか使うと思うんですけど、彼はパワポを使わずにプレゼンテーションソフトを一から作っちゃったという人です。

(吉田) パワポを使って見たらあまりにも使いにくくて頭にきたから自分でプレゼンツールを作っちゃったと聞きました(笑)。

(山寺) それ典型的な車輪の再発明系の人ですよね。やばいな(笑)。

(藤原) しかも3Dで動くプレゼンテーションツールだったんですよ。今はKeynoteとか使えばできると思いますが、当時は新しかったと思いますよね。
そういう感じで3次元のことに興味があって、色々やっていたというのが大学最初の4年くらいで、4年経つと周りはどんどん卒業していくので周りから人がいなくなってしまって、あとは自分で篭ってやるしかないなとなったのが残りの4年くらいでした(笑)。まあ、でも英語はなんとか読めるようになったし、プログラミングもとりあえず手を動かす範囲については困らなくなったし、量もかなり書いていたので意味のある時間だったと思います。
そして、最初の就活の面接のときにソースコードを持って来いって言われたんですよ。だからC++で書いた何千行かのコードを大学の演習室のプリンタで全部印刷して持って行きました。当時あまりなかったですけど、FreeTypeというライブラリを使って3次元空間上にTrueTypeFontを表示させるプログラムでしたね。

(山寺) 嫌がらせでしょそれ(笑)。

(藤原) これ読んでも分からないだろうなと思いつつもとりあえず持って来いって言うから(笑)。最近だとよくあるかもしれないですけどね。

(山寺) GitHubのリポジトリ見てくれとかね。

(吉田) あるある。

(藤原) そんなものがない時代だったんで印刷して持っていきました。それができたのも自由にできる大学の環境があったからだし、今は色々変わってるだろうなと思うんですけど当時はすごくゆるくて、単位を取らなくても在籍は可能みたいな。最近は何年生までに何単位取らなきゃいけないみたいなルールが加わってきたみたいですけどね。

(吉田) それはさ、我々の世代が留年しまくってて教室の椅子が足りなくなったりとか、我々が遊び過ぎたんだよ(笑)。

(藤原) そうですね(笑)。

Eyes, JAPANとの出会い、当時のエピソード

(山寺) 二人とも大学在学中にEyes, JAPAN(以下EJ)でアルバイトをしていましたが、EJを見つけたきっかけと、当時やっていたプロジェクトをそれぞれ教えてください。

(吉田) 見つけたきっかけはたぶん学内ニュースだったと思うんですけど、もう正直覚えていないです(笑)。EJの何かが刺さったんだと思うんですが、気付いたら働いてたという感じでした。仕事は一通り色々やらせてもらいましたね。

(山寺) それはなんでもやらされるってこと?(笑)。

(吉田) まあね、特に私が入ったときは法人化して2ヶ月目だったんですよ。法人化して2ヶ月目の企業ってまあ頭のおかしい人しか居ないですよね。できたばかりの企業ってすごく勢いがあって、勢いはあるんだけど中堅だったり大企業みたいに人が多いわけじゃないので、社内の組織もまだ全然出来てなくてという状態だったと思います。

(山寺) 未だにないんですけど(笑)。

(吉田) 当時よりはそれなりに役割分担があって企業として回って居ると思うんです。じゃないと20年続かないと思うから。でもできて2ヶ月目ってそんなのゼロじゃないですか。だからとにかく気が付くことがあったら誰でも何でもやるみたいな。それは仕事でもそうだし、社内の何かを円滑に回すというのもそうだし。それで当時は本当に色んなことをさせてもらいましたね。仏像作ったり。

(山寺) 仏像のCGですね。

(吉田) そうそう。当時まだモデリングツールもろくになかったですけど、仏像を実際に見に行って作りましたよね。あと本郷焼きのバーチャル美術館も作りましたね。あれも美術館の設計図を鉛筆で引いて、それを全部ひたすらコーディングして。

(山寺) 方眼紙に設計図書いて、Emacsで座標で入れてましたよね。でもやっぱりちょっと見え方おかしくなる部分があって、壁が一部裏返っちゃったり、でもこれはこれでアーティスティックでいいからこのまま行こうかとか(笑)。

(吉田) 本郷焼きの器もブラウザの上でインタラクティブにモデリングしましたよね。あれは発注もできるシステムだったんですよね。

(山寺) そうですね。でも当時まだブロードバンドの3年前でしたし、本郷焼組合の釜元20軒くらいあったんですけど、誰もパソコン持ってなかったんで、そういうシステム作っても早過ぎましたよね。たぶん10年くらい早かったかな。ちょっとそれは残念でしたけど(笑)。

(吉田) いやいや、そういうのを色々やらせてもらって面白かったです。

(山寺) 藤原さんはどうでしたか?

(藤原) 僕は1年半くらいお手伝いさせてもらたと思うんですけど、一番記憶に残ってるのは毎週木曜日のミーティングですね。前半は山寺さんが仕事のガイダンスみたいなのをして、後半は勉強会で各々持ち回りで発表するみたいな。

(山寺) それは今も継続してやってますね。

(藤原) 毎週木曜日は全員参加だったからそこは参加して、勉強会も何回か発表したと思います。あと仕事では、PHPでiモードの何かを作ったような。

(山寺) iモード懐かしいね。そういうのありましたね。

(藤原) そんな時代でした。確かPHP3とかでしたね。

Eyes, JAPANから学んだこと

(山寺) 今、EJでどんなことをしていたかというお話を聞きましたが、EJって普通じゃない部分もあると思うんですよ。それを楽しめるかめんどくさいと思うかは人によると思うんですけど、二人がEJで学んだことで今の仕事に役立っていることとか、あの時こうしておけば良かったとか、そういう教訓みたいなものがあったら教えてください。

(吉田) まず、きちんとルールや規律がある環境じゃないとダメな人はEJに向いていないと思います。それはどっちが良い悪いじゃなくて相性だと思いますけど。逆に、混沌とした状態から突破力が求められるような環境が好きな人にとってはすごく良い環境だと思います。実際、私がまさににそんな感じですごく楽しかったです。
EJから学んだ教訓というか、以前の上司に言われた一言で「人間誰でも、人生で初めてまともな給料らしい給料をもらった職場の文化を一生引きずる」という言葉は真理だなと思いました。

(山寺) そうするとEJは責任重大ですね。

(吉田) そうそう(笑)。いくつになっても、最初の職場の文化は何らかのカタチでその人の中には残ってると言われて。周りを見てもそう思うし、確かにその通りだなと思って。
私が大企業に入社して一番最初に配属された部署で、半導体開発のバックグラウンドがある人とソフトウェア開発のバックグラウンドがある人たちが一緒に働いていたんですけど、やっぱりなにか違うんですよね。その人が持ってるディシプリンみたいなものが違う。今は、開発の戦略を立てる仕事をしているんですけど、自分たちは新規事業でどんなことをするのか、それはどうやってやるのかとかそういうことを考えないといけない立場にいて、そこで求められるのはいわゆる大企業気質ではないんですよ。
やっぱり最初に給料をもらったEJの職場文化って私の中にすごく大きくあって、今に活きていると思います。

(山寺) それは嬉しいですね。藤原さんはどうですか?

(藤原) 僕は山寺さんのように小さい会社をやっているんですが、EJはしっかりしているなと思います。僕もやっぱり上の人の立場にならなきゃいけないんですけど、僕はちょっとゆるすぎて、周りが僕に引っ張られてるようなところがあるので、山寺さんのような人が一人いないといけないのかなと思いますね。EJは自由さもありますけど、山寺さんが厳しいところは厳しいじゃないですか。

(吉田) 確かに、我々も当時は学生で社会人のマナーとか全然知らなかったので、それこそ遅刻しちゃダメとかそういう基本的なところから、挨拶の仕方まで山寺さんにちゃんと教えてもらいましたよね。当時は学生でも普通にお客さんのところに行って要件ヒアリングをやらせてもらったりとか、そうすると適当な感じでは行けないわけですよ。お金をもらう以上は、学生なんだけど「学生です」っていう言い訳は通じないですし。

(藤原) 今も当時のような学生はいるんでしょうか?

(山寺) 最近はSlackで「今日遅刻しまーす」って来るんで、俺じゃなくてもbotで返せばいいんじゃないかと思ってますけど(笑)。未だにそういう学生はいますね。
あとはTwitterの公開のメンションで「今日お腹痛いんで休んでいいですか」とか、斬新過ぎるだろって(笑)。「電話があるんだから電話すればいいじゃん」って言ったら「山寺さん、打ち合わせ中だと電話取れないし、メールだとプッシュが鳴らないから迷惑かなと思って、Twitterだと鳴りますよね?」って全然間違ってないんで、うちは一応Twitterからの連絡もOKにしてるんですけど。

後輩たちへのメッセージ

(山寺) じゃあ最後に、EJの後輩たちにアドバイスやメッセージをお願いします。

(吉田) 受け身にならないことですかね。“仕事は与えてもらえるはず、教えてもらえるはず” だときっとつまらないと思うので。失敗しても多少何かやらかしてもいいので、アグレッシブに挑戦する姿勢が一番大事かなと思います。EJはそれができる環境だし、やらせてくれる社長だと思いますし、ぜひ前向きにアグレッシブに色々挑戦して欲しいなと思います。

(藤原) 社会人不適格者の私からすると、やっぱり山寺さんから社会人のルールみたいなものを学生のうちに叩き込まれるのはありかなと思います。
社会人としてルールをなんとなくでも就活の前までに知るのはありかなと。内定した後の研修期間みたいなのを、学生のうちにやってしまう感じなのかなと思います。ぜひ、おすすめです。

-ありがとうございました!


いかがでしたか?

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次回「Eyes, JAPAN OB座談会【後編】」もお楽しみに!

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