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山寺福島へ

beko

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とってもいいお天気で空には雲一つない洗濯日和でしたね。磐梯山もとても綺麗でした。いつの間にか日照時間が長くなってきていて、いつも日記を書く頃には 日が暮れているのにまだとても明るいです。
先週の土曜に行って来た坂下町のそば会について、昨日の日記に書き忘れたのですが、公民館の調理室に集まってそばがきの作り方やお蕎麦の湯で方などを実際に やって頂きました。私は初めてそばがきを食べてみましたが、里芋の田楽のような味でした。お蕎麦は透明感があってものすごく美味しかったです。お蕎麦の嫌いな 歌川さんもお蕎麦と思って食べていないのでおいしいと言っていました。
今日は雛祭ですね。そこで、雛祭の歴史を載せておきます。案外わからないものですね。
雛祭とは?

 3月3日の上巳の節句に、女児のいる家では雛壇を設けて雛を飾り遊ぶ祭。3月3日の節供は三月の最初の巳の日に行なわれたので上巳と書き、室町時代はじょうし、江戸時代からは多くじょうみと呼びました。上代、この節句に宮中で節宴を挙げ供物をし、闘鷄・曲水宴が行なわれました。供物には桃花餅・草餅、のちに桃花酒や白酒が用いられました。平安時代、ふだん玩ぶ人形をひいなと呼び、ひいな遊びと称して少年少女を写した人形にその館や乗物・食器なども使って今日のままごと遊びのようなものが行なわれていたことが、『源氏物語』『栄花物語』『狭衣物語』などにしきりと記されています。3月3日を中心として、雛を祭る節供の行事とひいな遊びが結びつき、江戸初期に現在の雛祭すなわち3月3日の節供となったのでしょう。
 今日の雛人形の立雛は雛流しのひとがたの姿の名残りであるでしょうし、座った姿の内裏雛はひいな遊びの人形の姿の続きといえるでしょう。江戸時代初期にはかならず立雛と内裏雛双方を飾りました。江戸時代中期から飾る人形の種類もふえ、幾段もの雛壇を設らえるようになり、三人官女・随身・衛士が加わり、のちに江戸で五人囃子の人形が作り始められ、さらに能・狂言・舞踊・歌舞伎などに取材したものが浮世人形と総称して飾り添えられるようになり、雪洞・金屏風・桜・橘や、調度として膳・三方・高杯・行器から箪笥・長持・挟箱・貝桶・鏡台・針箱・菱台あるいは駕籠・牛車まで作られて今日の雛祭の飾りとなりました。それに汐干狩の時季になるので、さざえ、蛤・小鯛などの海の幸を供え、慈姑・浅葱などの野の初物を供える風習もできました。

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