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Gentlemen’s Agreement

kato

この記事は1年以上前に書かれたもので、内容が古い可能性がありますのでご注意ください。

猛暑の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。
ご無沙汰しております。カロ藤でございます。

唐突ではございますが、勤めながらに日々思うことをつらつらと。最近、私は「責任とは何か」と考えることが多々あります。

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責任:

  1. 立場上当然追わなければならない任務や義務
  2. 自分のしたことの結果についての責めを負うこと
  3. 法律上の不利益または制裁を負わされること

goo辞書より一部抜粋
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我々の仕事では安全な設計から着工、安定運用を行う為の念入りな計画行うことでの「責任を持つ」(“意味1”) ことが 必要とされ、万が一の問題時には「責任を取る」(“意味2”) ことで社会的な制裁 (“意味3”) を受けます。そして対象から言われる「責任を取ってください」という言葉は”意味1″の至らぬ部分から”意味2″が発生し”意味3″を負担することとなります。これは対象への仕事が上手く出来なかった事の表れです。お客様との関係以外にも会社の欠点部分が浮き彫りになり、無視が出来無い問題として謝罪と状況の改善の努力が必要となります。「責任」を仕事的に話すとこのような内容となります。

まずは仕事的に限定して書きましたが、人間関係的にも同様の「責任」は存在します。人間関係は仕事の契約ほど厳しくはないにしても、浅かれ深かれ信頼関係に基づいて相手のことを思い遣ることによる静かな紳士的な契約のようなものに基づいて成り立っています。その中で紳士的な振る舞いを行うには対象への信頼足りえる行動をする必要があり、自分の行動や目的を明確にしていつでも説明が可能な状態とする「責任を持つ」ことが必要となります。私の経験に基づいてしまいますが「〜〜と思います。」を連続で発言すると「何故断定しない」「責任を持てないのか」と叱咤され、信頼されない風潮はこのような背景があるからではないでしょうか。

次に上記のような「責任を持つ」事により「責任を取る」こととなります。他者とのやり取りで思慮が足りなかったり、己の行動が正しく思っても対象に著しいマイナスに働いてしまっていた場合には己を省みて謝ることが必要であり、それが取るべき「責任」となります。(関係に因っては呑み代奢り等も追加されますが;) このように書きましたが実際の人間関係はここまで厳しいものはなく、「責任を取ってください」とはなかなか言われません。関係が良好であればお互いなぁなぁで済みます。ただし、これは良好な関係から許されただけであり、以後このようなことが無いように己を省みることになります。これが当人が知らずとも行われる「責任を取る」事となります。「責任」について考えますと、何かしらの関係を保つためにはそれなりの覚悟と努力が必要であることを再確認させられます。

これまでが責任についての提起となります。以下、本題として思っている事を書きますと、昨今のインターネットでの発言の際、発言者のもつべき「責任」が少なく感じ危惧しています。

インターネット上では日々有用で様々な情報や意見が取り交わされています。しかし、そこで議論するために形成される”実影響が少ない緩めの繋がり”であったり、”一方的に情報を発信する関係”については「責任」の対象が見えづらく「責任を持つ」事が実際の人間関係に比べて更に難しくなっています。

例えば、それぞれが閃いた思いつきを検証もなく無節操にインターネット上に発言する行為。これは一部の人間には心地の良い意見であるが、発言の対象が広すぎである事から何に気をつけるべきかが分からない状態で発言をしてしまい、結果、思慮が至らずに閲覧したものへの中傷となる事があります。また、それにより生じた自分の意見に否定的な反響 (主に根拠がない≒無責任、等) があった場合には、もともとの発言に責任が無いことを知ってか知らずか、不快な事に対してアクセス禁止・アカウントのブロック・記事の削除を行うことによる無視や関係の切り落としを行い、「己の行っていることの正当化」、「心のバランス取り」が行われがちとなります。

これらの行為は果たして紳士的な対応であるのでしょうか。これは「責任をもつ」、「責任をとる」両方を怠った行為であり、決して紳士的ではありません。

ではこの状況での正しい責任とは自分が思ったことを書き込める自由な環境に居ても己を律し、発言するためにしらべて調べて発言することが「己の行っていることの理解」として正しい「責任を持つ」行為となります。そして発言から生じた反響の対応、否定的な意見が出たものに対しては自分の意見の正しさを示すことが「責任を取る」ことです。

自分の発言は必ずしも正しくはありません。至らぬ部分も存在します。至らぬ点から意見の否定があった場合には持論を落ち着いて見直し、結果がどうであれ理屈を立てて議論をする形での「責任を取る」ことが必要となります。否定に対して上記のような一方的な関係の切り落としによる安易な対処を行うのであれば、自分がせっかくの持った責任を放棄することになります。またその中で残された記録は自身が作った理論の暴走のみしか残らない負の価値となる事でしょう。時には他者の言うことに素直に耳を傾け、己を見つめ直すこともコミュニケーション手法の一つです。そして、これも立派な「責任を取る」こととなります。

最近は個々が自由に発言が出来できる環境から一方的に「形が見えない広い世界」との関係が作成が可能です。また広い対象であるが故、個人の視点から発言の対象が見えづらくトラブルが生じやすい環境です。そしてトラブルの際には一方的に関係を精算するといった破棄行為が容易に可能な環境です。これらの環境から感覚が麻痺をして己の行動の「責任」という言葉を思い出せなくなってはいないか、そしてこれらの結果から不要な混乱を招いていないかと最近私は危惧しています。

対策として各々がインターネットの利用者の想像を行う対象の特定と、発言に出来る限りの「責任」を持つことが必要です。そしてその「責任」についても現状では蔑ろにされがちであることを理解し、これは「責任が存在するやり取りであり、信頼できる情報か」を判断して動く事が必要でしょう。

「発言出来る環境が身近に浸透した今だからこそ、ネチケット(死語)を見直してみましょう」というお話でした。

カロ藤 (Q: さて、何回「責任」と書いたでしょう? A:34回)

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